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18-2 A → 児玉学友部長

児玉学友部長様


前のメールをお送りしてから5日経っても返信がいただけませんが、どうなされましたでしょうか?

先に、11日に頂いたメールに対して返信させて頂きます。


> ★10★
>
> 本願文36文字全体の解説が成就文である
>
> ということは分かりましたか。
>
>
> この点については文句がないようですね。


この点についての文句ばかり書いてきた気がしますが、僕のメールは本当に読まれているのでしょうか?
無視されているのならショックです。

児玉先生は、
「本願文36文字全体の解説が成就文である」という根拠に、

『横超とはすなわち願成就一実円満の真教真宗これなり』
のお言葉を出されました。

このお言葉について、児玉先生は、

1、横超=弥陀の本願
2、横超=本願成就文

この2つを主張されました。


まず1つ目の、「横超=弥陀の本願」については、

『二には横超、選択本願・真実報土・即得往生也。』
を根拠として出されました。

僕は、この文章だけでは、親鸞聖人が何を仰ろうとされたのか、断定することは出来ないと思ってます。

「横超」という単語の後に、「選択本願」「真実報土」「即得往生」の3つが並べられていますが、これらが「横超」とどのような関係にあるのか、これだけではハッキリしません。

ところが、児玉先生は「横超」の後に、「とは」という助詞を勝手に追加され、さらに「選択本願」の後に「なり」という助動詞も追加されました。

そして、「真実報土・即得往生」の二語を勝手に削除され、「横超とは選択本願なり」という、新しい言葉を作成されました。


ところが、児玉先生に習って、僕が「横超とは真実報土なり」「横超とは即得往生なり」という言葉を作ったところ、

> ★君は親鸞聖人のお言葉を自分の都合のよいように
>
> 勝ってに、書き換えてしまっています。


このように注意されます。
これは自己矛盾ではないでしょうか?


さらに、「横超=選択本願」だと仰るなら、当然「横超=真実報土」「横超=即得往生」も成り立つはずなのに、それを認めようとされないのは何故でしょうか?

これが成り立つなら「選択本願」=「真実報土」=「即得往生」となり、意味不明です。
だから、最初から「横超=選択本願」の解釈が間違いだと考えるのが自然なのです。

しかし、こんな議論を続けても話が進まないので、とりあえず「児玉先生を信じることにしますが」と書いただけで、到底納得できる話ではありません。


次に2つ目の、「横超=本願成就文」について、

「横超」の意味については、教行信証等を拝読すると、いくつかの意味があるように思いました。
しかし、一番スッキリとした解釈は、以下のものだと思います。

【唯信鈔文意】
この一心は横超の信心なり。
「横」は、よこさまという。
「超」はこえてという。
よろずの法にすぐれて、速にとく生死の大海をこえて、無上覚にいたる故に、「超」と申すなり。
これ即ち如来大悲の誓願力なるが故なり。

【尊号真像銘文】
「横超」というは、「横」は如来の願力・他力を申すなり、「超」は生死の大海を易くこえて無上大涅槃のみやこに入るなり。

【教行信証信巻】
大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾、速やかに疾く無上正真道を超証す、故に「横超」と曰うなり。


つまり、

横=阿弥陀仏の本願力によって、
超=仏のさとりを開くこと

ですから、
横超=「阿弥陀仏の本願力によって、仏のさとりを開くこと」になります。


もちろん、

阿弥陀仏の本願=「必ず仏にしてみせるという誓い」=横超

という意味で、本願=横超だ、と言われるなら理解できますが、どこにも「信楽にしてみせる」という意味は出てきません。


特に今回、問題になっているのは次の御文です。

【教行信証信巻】
「横超」とは、即ち願成就一実円満之真教・真宗是れなり。亦復「横出」有り、即ち三輩・九品・定散之教、化土・懈慢、迂廻之善なり。大願清浄の報土には、品位階次を云わず、一念須臾の傾、速やかに疾く無上正真道を超証す、故に「横超」と曰うなり。

「横超」に他の意味もあるかも知れませんが、ここで親鸞聖人が「横超」と仰っているのは、「本願力によって、仏のさとりを開くこと」という意味であることは明白だと思います。

この横超(本願力によって、仏のさとりを開くこと)が、本願成就文とイコールだとすると、「本願成就文には、死後のことは一切説かれていない」と親鸞会で教わってきたことが、間違いだということになります。


> この疑問は若不生者の生まれるの意味を君が混乱して
>
> 分かっていないところから
>
> 起きているのです。



これでは説明になっていないと思います。



> 横超が選択本願だということについては、
>
> 児玉先生を信じることにします。
>
> ------------------------------------------------------------
> と君が書きました。
>
>
> ★1★君は横超とは阿弥陀仏の本願であると
>
> 理解をしたということです。


「信じる」と「理解する」は、同じでしょうか?
理解できなくても信じる、ということは有ると思います。

理解できないからこそ、「信じる」という言葉を使うのではないでしょうか?
これは、「矛盾なるが故に、われ信ず」という感じです。



> > 2★横超に「阿弥陀仏の本願以外の意味もある」ということですが
> >
> > それはどういう意味ですか。
>
> 「二には横超、選択本願・真実報土・即得往生也」という意味です。
>
> ------------------------------------------------------------
>
> ★2★上記は、横超は
>
> 阿弥陀仏の本願ではない、という意味ですか。


そんなことは書いていません。
児玉先生の解釈によれば、「横超とは選択本願」「横超とは真実報土」「横超とは即得往生」の3つを認めなければなりませんので、その根拠を書かせて頂きました。



> ★3★上記の文章から
>
> 「若不生者」と「即得往生」が違うと、君は書いていますが
>
> これは若不生者の生まれるは死後で
>
> 即得往生の生まれるは、死後ではなくこの世だと
>
> 理解しているのですか。


若不生者は「真実の報土へ来らしむ」ことだと親鸞聖人は仰っています。

「真実の報土」に生まれるのが死後ならば、若不生者も死後だと思いますし、
「真実の報土」に生まれるのがこの世ならば、若不生者もこの世だと思います。

親鸞会で、「真実の報土」に生まれるのは死後と教わりましたが、これは間違いでしょうか?

即得往生は、この世だと思います。



> ★4★結局君の質問の源である
>
> 若不生者の生まれるは
>
> 死後だけだということですね。


若不生者の「生」が、「信楽に生まれさせれる」である根拠は何かということです。
死後とか、この世という質問ではありません。

この世で生まれるとしても、それが信楽であるという根拠がなければ、「信楽に生まれさせる」とは言えないと思います。



> ★5★どうしてこれが条件だということになるのですか
>
> 説明してください。


「信心をうれば、」と親鸞聖人が仰っているからです。
これは、「信心を獲なくても、すなわち往生できる」という意味になるのですか?



> ★6★結局
>
> 即得往生と
>
> 信心をうることとは
>
> どう違うのですか。


信心をうれば、即ち往生できると親鸞聖人が仰っていますので、少なくともイコールではないと思います。



> ★7★君のいう横超とは即得往生なり
>
> というのはどういう意味ですか。


「横超とは即得往生なり」とは、児玉先生の解釈によってできた言葉です。
ですから、僕が児玉先生に意味を尋ねたいくらいです。



> ★8★
>
>
> 君は親鸞聖人が願成就と仰言っているのは
>
> 本願成就文のことではない
>
> と思っているのですか。


本願成就文ではない可能性がある、と書いたとおりです。



> 18の願にとりてはまた
>
> 願成就をもって至極とす、という覚如上人のお言葉も
>
> 本願成就文でないと思っているのですか。


これが何の関係があるのでしょうか?

親鸞聖人が「願成就」と書かれた意味を推測するために、親鸞聖人の言葉遣いを調べただけです。

それだけで「願成就」が願成就文ではないと断定するつもりはありません。しかし、親鸞聖人の言葉遣いから推察すると、願成就文ではない可能性もあると申し上げたのです。

覚如上人の言葉遣いについては、僕は調べていませんし、よくわかりません。



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